今でこそ数が少なくなったものの、銭湯は庶民の楽しみの一つでした。
銭湯は、以前は風呂屋と呼ばれ親しまれていましたが、現代では銭湯という呼び方の方がしっくりくるという方は多いです。
呼び方が変わったように、風呂屋の姿かたちも歴史の中で大きく変わってきました。
そして、風呂屋が大きく変化した時代の一つが大正時代。
では、大正時代に風呂屋は一体どんな変化を遂げたのでしょうか。
近代化、始まる!
銭湯、元は風呂屋、湯屋などとも呼ばれ、親しまれていました。
風呂屋は昔ながらの蒸し風呂タイプ、湯屋はお湯に浸かるタイプというように区別されたり、または地域によってどんな風呂がどの呼び方で呼ばれるかなどに違いがありましたが、現在では特に区別をつけず、銭湯と言われることが多いです。
そんな風呂屋は大正時代に一気に近代化が進みます。
それまでの板張りの洗い場、そして木造の浴槽は姿を消し、タイル張りに。
現在親しまれているような姿の風呂屋へと変化していくのが大正時代なのです。
関東大震災でより豪華に?
大正時代、風呂屋は近代化が進みましたが、特に東京周辺の風呂屋はその見た目も大きく変わります。
唐破風様式の豪華な宮造りが定番となったのです。
宮造りは神社仏閣のような造りのこと。
東京周辺でそのような宮造りの風呂屋が増えた理由は、関東大震災でした。
大正時代の1921年、日本を襲った関東大震災。
その復興時、風呂屋を立て直していた大工がそれまでの質素な造りから豪華な宮造りの風呂屋へ変えたのです。
後に東京型銭湯様式と呼ばれるこの造りは評判を呼び、東京ではそれまでの質素な造りを豪華な宮造りへと変えた風呂屋の数が増えていったのです。
ペンキ絵の登場
現在、銭湯といって思い浮かべる特徴は?と聞かれれば、浴室の壁に大きく描かれた富士山の絵だと答える人も多いはず。
それほど風呂屋で大きな印象を受ける富士山の絵は、最近は少なくなってきたペンキ絵と呼ばれるもの。
そんなペンキ絵が風呂屋の浴室の壁に描かれるようになったのは、大正時代の頃からでした。
きっかけは、宮造りの時と同じく、ひとつの風呂屋。
大正元年、一つの風呂屋が洋画家に頼んで浴室の壁に絵を描いてもらったことがきっかけとなり、日本に広まっていったのです。
そして初めて浴室に絵を描いたとき、その洋画家によって初めて描かれた絵が富士山だったのです。
大正時代に入り、一気に近代化が進んだ風呂屋。
なかでも東京周辺で見ることができる宮作りの豪華な風呂屋、そして現在でも風呂屋といえば思い出されるほど、風呂屋につきもののペンキ絵も大正時代から見られるようになったものです。
大正時代になって、風呂屋では大きな変化がおき、それまでの風呂屋の歴史にさらに新たな特筆すべき歴史が加わったのです。