3月3日といえば、ひな祭りの日。
ひなまつりの日には、その日ならではの食べ物や様々な行事があります。
そのなかでも、ひな祭りを説明するために一番欠かせないものが雛人形です。
現代でも3月3日のひな祭りといえば、雛人形を飾ることを一番に思い浮かべる人が多いと思います。
では、その雛人形が現在のように飾られるまでにどんな歴史をたどってきたのか、そして大正時代におこった雛人形の変化について見てみましょう。
雛人形は呪術道具?
現代では、雛人形は美しく、可愛らしいもの、そして芸術性のあるものとみなされ、扱われています。
しかし、雛人形の歴史をさかのぼってみると、もともとは全く違う意味や役割を持っていました。
実は、雛人形はかつて、人の身代わりとして厄災を引きつけてくれるものという扱いだったのです。
雛人形の元となるそれは、形代、とよばれるもので、汚れや禍をそれに移すことで自分が災難にあわないようにするものでした。
現在では可愛く、綺麗なものという扱いの雛人形の始まりは、呪術のための道具だったのです。
そんな雛人形が現在のように芸術性の高いものとして扱われ始めたのは江戸時代の頃でした。
雛人形の豪華な衣装
ひな祭りに飾られる雛人形は、男女ともに豪華で華やかな衣装を身につけています。
女雛の着ている華やかな衣装は簡単に十二単と呼ばれることがありますが、正式には五衣唐衣裳といいます。
その名前のとおり、五衣に唐衣、そして裳で構成された衣装です。
また、女雛と対になっている男雛の衣装は男性装束の花と呼ばれていた束帯というもの。
そして、その頭には冠、手には重要な道具として使われていた笏を持っています。
大正時代の雛人形の変化とは
かつて呪術の道具として扱われていたものが変化した雛人形。
では、大正時代の雛人形には一体どんな変化が起こったのでしょうか。
最初は厄災を身代わりに引きつけてくれる形代だった雛人形は、江戸時代になると芸術性を求められるようになっていきます。
そして、明治時代にはより大きく、そして堂々とした御殿づくりのものが目立つようになるという変化が起きました。
しかし、より大きく、堂々としたものを求めた明治時代から大正時代に変わると、その流れが変わっていきます。
大型だった明治時代の雛人形に比べ、百貨店から販売された小型の段飾り雛や御殿飾り雛の一式揃えが都市部で流行するようになるのです。
それまでは道具屋や人形師から気に入ったものを個々に買い集め、結果として家ごとの個性が出ていた雛人形ですが、大正時代には人形と道具が一式揃えで頒布されるようになるのです。
そして、価格によって製品が画一化するようになるのも大正時代中期ごろ。
それまでの雛人形と比べ、大正時代の雛人形の飾り方やその品などからは家庭ごとにあった個性が失われていくのです。
そのはじめは形代として作られた雛人形。
時代が変わるにしたがって、その姿や意味も徐々にかわっていきました。
大正時代も雛人形のあり方が大きく変わった時代の一つ。
より小型になるなどの変化を経ることで、より現代の家に馴染むようになっていったのです。