混乱と波乱の大正時代の政治

大正時代は市民が中心となって作る大衆文化が起こるなど、にぎやかで楽しい時代として知られています。

でもその一方で、国内の政治は混乱していました。

にぎやかで、つい目を奪われてしまう大正時代の大衆文化、そしてそれを楽しむ人々の陰で、大正時代の政治はどのようなものだったのでしょうか。

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新しい時代、「大正時代」

明治時代が終わり、新しい時代である大正時代が始まります。

ちょうどそのころ、明治時代の末からの不況を吹き飛ばすような、新しく誕生した政治への期待が人々の間で広がっていきました。

その理由の一つは明治時代から大正時代という新しい時代になったこともありますが、実はもう一つ原因がありました。

もう一つ、それは憲法学者の美濃部達吉が1912年に『憲法講話』を刊行したことです。

美濃部達吉はこの『憲法講話』で天皇機関説や政党内閣論を唱えています。

明治時代から新しく大正時代へと時代が変わったこと、そして美濃部達吉が『憲法講話』を刊行したという、この2つのことから人々は新しい政治への期待を高めていくのです。

陸軍の反抗が招いたのは

大正時代には、西園寺内閣が総辞職に追い込まれ、それを皮切りにして政治は混乱の時代に入ります。

もともと西園寺内閣が総辞職したのは実は陸軍の反抗によるものでした。

きっかけは陸軍のこんな要求でした、

陸軍は朝鮮に入るための兵を降らすために、約2万人の兵隊を増やすように要求したのです。

しかし、内閣は財政の改革と人員削減のため、首を縦に振りませんでした。

このことに反抗した陸軍は海軍大臣、そして陸軍大臣を辞任させ、後任を出さないという手段に出たのです。

このことにより、西園寺内閣は続けていくことができなくなり、総辞職へ追い込まれてしまいます。

その結果、桂太郎が就任したばかりの内大臣と侍従長を辞め、第三次内閣を組織したのです。

在任わずかで辞任!

そうして誕生した桂内閣ですが、思わぬ暗礁に乗り上げました。

桂太郎が侍従長という宮中の職から首相になったことで、宮廷と行政府の区別がついていない、つまり内閣の原則となっている宮中・府中の別を乱すものだと批判されたのです。

つまりは新天皇を擁して政権独立を企てているという非難の声が上がり、都市の民衆やジャーナリスト、さらに立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄が先頭になり、「閥族打破・憲政擁護」をかかげる運動が全国に広がっていったのです。

この運動が第一次護憲運動です。

そして、その運動が勢いを増していった結果、桂太郎は在職わずか50日ほどで退陣に追い込まれるという大正政変が起こったのです。

大正モダンなど、大正時代は一般の人々の間で多くの文化が育ち、その日常も海外の影響などで大きく変わっていった時代。

その大正時代で大正政変などが起こり、混乱の中にあった政治。

政治に大きく影響を出した第一次護憲運動ですが、一般の人々もその運動の担い手となり、結果として日本のそれからの政治を変えたのです。

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