明治時代から大正時代になると、日本に入ってきた海外の文化に日本の人々の生活は大きく影響を受けます。
そして変わっていく生活に合わせて家もそのかたちを変えていきますが、その一方で同じ階層の人々同士ではそれほど家や生活に違いはありませんでした。
例えば、大正時代の都市には都市の、農村には農村の生活に合わせた家があったのです。
そのころブームは和洋折衷?
大正時代には、海外の文化が人々の生活に影響を与えたこともあり、多くの物事に変化が起こった時代でした。
それは、人々の生活している家でも例外ではありません。
明治時代末期以降、阪急電鉄はその沿線に文化住宅のはしりともいえる、月賦で買えるサラリーマン向けの分譲住宅を開発しました。
文化住宅の大きな特徴は、和洋折衷であるということ。
日本に入ってきた海外の文化の影響はそんなところにも出ていたのです。
また、都市ではそれまでと違い、関東大震災を大きなきっかけとして鉄筋コンクリートで造られたビルディングが建てられるようになっていきました。
サラリーマン宅、急変
そんな変化が起きていた大正時代では、サラリーマン家庭が新中間層となります。
そんな新中間層のサラリーマン家庭に向けて、「住宅改良会」が月刊紙『住宅』で欧米の住様式にすること、そして生活の中でおこる主婦の家事労働を減らすための住宅改良を訴えました。
主婦の家事労働を減らすための住宅改良とは、流しや調理台の下を戸棚にすることによって、狭い空間を広く使える立式の作業台にするなどを指し、『住宅』ではそういった住宅改良を訴えていたのです。
古くからの日本住宅は客間が家の中心にあり、来客の時は子供は外に出るか、静かにしていなければなりませんでした。
しかし、玄関脇に応接室を設けることで、そんな必要はなくなります。
いわば、来客中心に考えた家から家族の生活を中心に考えた家へと変化していったのです。
また、このころに子供室も登場しました。
農村、変わらず。
では、大正時代の農村の家はどうなのでしょうか。
都市の新中間層の家は変化していましたが、農村の家はそれほど変化は見られませんでした。
そして、農村の家のつくりは全国共通となっていました。
その農村の生活に合わせた家の特徴は土間と床張りからなること、そして床張りの部分は4つの部屋が田の字型に配置されているところです。
また、大きな家の場合は部屋の数は増えるなどの変化がありますが、基本は変わりません。
土間が農村で重視されるのは、土間は農具の始末や雨の日の仕事などに利用できるからです。
そのため、全国の農村の家には必ず土間が配置されていたのです。
大正時代は家の構造が変化していった時代です。
しかし、その変化は人々の生活に合わせて起こったもの。
そのため、生活が変わっていった都市の人々の家には変化が起こり、明治時代から変化がなかった農村の人々の家には変化がなかったのです。