大正時代、都市部で暮らしていた人々は海外の文化を取り入れた生活を送っていました。
モダンガールが街を歩き、大正モダンなどの言葉が誕生した大正時代。
では、そんな大正時代で人々に愛された大衆文化とは何だったのでしょうか。
そもそも大衆文化って?
大正時代以前は、その時代の中で流行ったような文化は立場が上の人々が作り出し、それを下の立場の人々がまねをするという形で広がっていきました。
文化の担い手は一握りの人々であり、一般の人々ではなかったのです。
しかし、大正時代の大衆文化は違います。
それまでのような一握りの上層階級の人達ではなく、サラリーマンや労働者など、一般的な生活を送る人々が担い手となり、新しく作り出されていった文化なのです。
そのため、大衆文化にはいったいどんなものがあるのかを知ることは大正時代の一般的な人々を知ることにつながっていくのです。
きっかけはここから?
では、大正時代にはなぜ一般的な人々を担い手とする大衆文化が育ったのでしょうか。
それは、大正時代になって識字率が向上し、ほとんどの大衆が字を読めるようになったことがきっかけです。
識字率が上がり、義務教育も普及していったため、高学歴者がふえ、サラリーマンの数も増えていきました。
それと同時に、女性であっても外に出て職を得て働く職業婦人が増えていきます。
そうすると、それらの人々を受け取り手として新聞やラジオなどのマス=メディアがどんどん発達していったのです。
こうして多くの一般的な人々の間で様々な情報が共有され、大衆文化が育つ土壌が出来上がったのです。
大衆文化の娯楽とは?
大正時代の大衆文化では多くの人々に愛される文化がたくさん誕生、発展していきました。
例えば、児童文学ブームが起きたのもこのころのこと。
新聞の発行部数が増えただけではなく、『中央公論』などの総部雑誌が発展していきました。
そして、児童文学ブームなどのため、活字文化もまた育まれていったのです。
現代でも娯楽として人気の高い映画も大正時代に愛された大衆文化の一つです。
当時は映画は活動写真と呼ばれ、娯楽として広まるにつれて観客数が多くなっていきました。
そのため、映画業界が活発になり、日本で作られる映画もどんどん増えていったのです。
しかし、大正時代で活動写真などの大衆文化が発達し、人々が楽しむ一方で、その大衆文化の発達や近代化した生活様式は農村部にはいまいち普及しませんでした。
そのため、大正時代には大衆文化に沸く都市部とその波が来なかった農村部との間で文化的な格差は残ってしまっていたのです。
大正時代に多くの人々に愛された大衆文化。
その文化のにぎやかさ、そして発展を見ていくと、大正時代に生きた人々が当時どんな生活をしていたか、どんなことをどんな風に楽しんだかを細かく知ることができるのです。