大正時代の遊園地

現代では、休みの日に出かけるレジャースポットとして日本のいたるところに遊園地があります。

ちょっとした休日に一日中楽しく遊べる遊園地。

では、大衆文化が花開いた大正時代では遊園地とはどんなものだったのでしょうか。

また、大正時代にあった遊園地以外の娯楽にはどんなものがあったのでしょうか。

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大正時代の娯楽

大正時代に入ると、「文化」という言葉がよく使われるようになっていきました。

現代でも使われている「文化住宅」、「文化包丁」などの名前はからもそのことはよくわかります。

そんな風にさまざまな「文化」が誕生した大正時代は、一般の人々の自由な生活感覚の中から育まれた大衆文化が花開いた時代でした。

第一次世界大戦の影響で大戦景気にわく日本では、好景気のなかサラリーマンが登場し、その数も増えていきました。

そしてそれとともに、余暇を楽しむためのレジャーの習慣も日本に定着していったのです。

大正時代までの娯楽といえば、映画鑑賞、縁日、お花見などでした。

しかし、大正時代に入ると一部の人の間だけでしたが少し遠出をしなければならない海水浴場や、温泉、スポーツ鑑賞も広がっていきました。

そのように娯楽が増えた大正時代に、新しく広がった娯楽の一つとして遊園地もあげることができるのです。

大正時代には、遊園地などの新しい娯楽が発展していったのです。

大正時代からある遊園地とは

大正時代には既に幾つか遊園地ができていましたが、大正時代の訪れと同時に開園した遊園地もありました。

それが、1912年に開園したひらかたテーマパークです。

ひらかたテーマパークは「ひらパー」の愛称で親しまれる現在でも人気の遊園地。

まだ遊園地がそれほど一般的な娯楽ではなかった頃から開演している、古い歴史を持った遊園地なのです。

遊園地は客寄せパンダ?

明治時代や大正時代頃から少しずつ数を増やしていった遊園地ですが、そんな遊園地、実は私鉄が建てていることが多いということはあまり知らない方が多いのではないでしょうか。

実は大正時代、私鉄が遊園地を建てた目的には、線路の近くに人を集めておきたいという狙いがありました。

そのため、私鉄は人々を遊園地を建てることで引き寄せ、線路の近くに人を集中させ、将来的にもしっかり人を引き寄せる土地にしておきたかったのです。

明治時代から大正時代にかけて、交通の利便性が高まるとともにレジャーを楽しむ大衆が増えていきました。

私鉄などは時代の先を読んだ上で遊園地など、人が惹きつけられる場所をつくりだし、人を呼び寄せていたのです。

明治時代から大正時代にかけて、大戦景気で日本は好景気に恵まれました。

そんな時代背景の中で、遊園地など、レジャーが少しずつ広まっていきましたが、遊園地が増えていったのには、裏にそんな理由があったのです。

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