大正時代の中国に対する日本の対応

日本にとって近くて遠い国といわれる中国。

中国は日本にとっていつの時代でも重要な国です。

様々な文化や品物が中国を通して日本に伝わってきた歴史があり、切っても切れない関係なのです。

では、大正時代の日本と中国はどんな関係であり、どんな出来事があったのでしょうか。

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中国に日本が接近したわけとは?

大正時代である1951年、日本は中国の袁世凱政府に対し、二一ヶ条の要求を突きつけました。

この二十一ヶ条の要求を突きつけたのは、政治や経済、そして軍事の面で日本が中国で得ることのできる権利や利益を大きくしようとしたためです。

中国の国民の二十一ヶ条の要求に対する反感は強かったものの、日本は中国にその要求のほとんどを飲ませてしまったのです。

以降、中国では要求を受け入れた5月9日は国恥記念日となっています。

反感を抱かせない日本

本来、二十一ヶ条の要求のようなことををほかの国に行えば、国際世論が黙ってはいないはず。

第三者の立場でほかの国が意見するはずですが、大正時代のころに起きていた第一次世界大戦でヨーロッパ諸国はほかの国のことに気を配る余裕はありませんでした。

更に、日本は中国に対する対応でほかの国に反感を抱かせないようにするため、様々な工作を行います。

例えば1916年、極東での両国の特殊権益の擁護を確認した第四次日露協約を締結します。

更にイギリスとは覚書を交換し、中国の山東省のドイツ権益の継承を確認します。

それだけではありません。

日本の中国に対する対応で最も批判的であったアメリカに対しては、日本の特派大使である石井菊次郎がアメリカの国務長官ランシングと交渉し、石井・ランシング協定を結んだのです。

これは日本の中国における特殊権益の継承の確認などを含んだ協定でした。

大正時代、中国権益の拡大に対し、ほかの国々が日本に批判的にならないように手を回したのです。

中国革命の父とは?

理不尽な二十一ヶ条の要求のほとんどを飲ませたりしたことで中国と日本の関係が冷え込んでいた大正時代。

そんな時代であっても、日本に好意的であった中国の人もいます。

例えば、辛亥革命で中国史上初の共和国、「中華民国」を樹立した人物、「中国革命の父」とよばれた孫文は1913年に日本に亡命していました。

さらに、官憲に追われてとっさに孫中山と名乗ったという出来事がありましたが、これは親しくしていた日本人の友人がいて、とっさにその日本人の友人の名字を名乗ったため、出てきた名前でした。

政府の間の関係は悪くなっていても、個人でいい関係を結んでいた人々がいるのです。

近くて遠い国、中国。

それだけに難しい関係ですが、中国と日本は大正時代には関係が悪化しながらも、個人個人の関係に目を向けてみると、だれもがお互いに対して冷たかったわけではなかったのです。

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