集団で戦う大正時代の労働運動

労働者が、使用者側に対して自分たちの労働条件や、社会的な地位などを求めて団結して行う運動のことを労働運動といいます。

大正時代はこの労働運動の動きが全国で活発になった時代でした。

では、その労働運動はなぜ大正時代に一気に増えていったのでしょうか。

そして、大正時代の労働運動とは一体どんなものだったのでしょうか。

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賃金の引き上げ要求に至った2つの理由

大正時代は多くの労働運動がおこりましたが、その数が増えたことには世の中の動きに関係する2つの理由がありました。

さかのぼって見ると、大正時代の少し前の明治時代には、民主主義を求める声が大きくなっていった結果として、多くの普通選挙運動や米騒動などが起こりました。

そんななか、大正時代に突入し、日本は戦争をきっかけにして産業が急に発達します。

急に産業が発達した結果、より多くの労働者が必要とされましたが、それと同時に物価上昇が起こるのです。

そのため、労働者は賃金を引き上げる要求をせざるをえませんでした。

労働運動が大正時代に活発になったきっかけはこの労働者の増加、そして物価の上昇だったのです。

15名から始まった労働運動

大正時代の労働運動を知る上で、是非知っておきたいのが鈴木文治という人物です。

労働者の地位向上と労働組合を育てる事を目的として友愛会を作った人物です。

友愛会は1912年に作られましたが、当時鈴木文治を含め、たった15名でのスタートでした。

しかし、労働組合の全国組織となり、日本労働総同盟友愛会と名を変えた1920年には、メンバーが3万名になるなど、大きな成長を遂げたのです。

そして毎年5月1日に世界中で行われる労働者の国際的な祭典であるメーデーも1920年に初めて日本で行われます。

普通は5月1日に行われるメーデーですが、日本での第1回メーデーだけは2日に東京上野公園で行われ、5千人から1万人もの人が集まりました。

そしてそこで8時間労働制の実施、失業の防止、最低賃金の制定を訴えたのです。

そのメーデーの後、日本労働総同盟友愛会は八幡製鉄所や三菱、川崎両造船所の争議など、戦後の不況下の労働騒動を指導する立場の存在になっていくのです。

集団で戦うことの強さを知った大正時代

大正時代に行われた第1回メーデーを始め、労働条件の改善要求を集団でするようになっていった大正時代。

それまで集団で何かを訴えることが全国的に広がることはありませんでしたが、大正時代からそれが変わっていきました。

明治時代からの米騒動をきっかけにして集団で物事の是非を問うようになったのです。

現代では集団で声を挙げることはあまり珍しくはありません。

しかし、労働運動を行う時、集団で何かを訴えるようになったそのルーツはこの大正時代にありました。

大正時代になり、人々は集団で戦うその強さを知ったのです。

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