1910年から、日本は朝鮮半島を植民地にしてきました。
しかし、現在かつて日本が朝鮮を植民地にしていたことを知っている人は徐々に少なくなってきたといわれます。
大正時代に日本に植民地にされた朝鮮と日本には、どのような出来事が起こっていたのでしょうか。
朝鮮半島を植民地へ
1910年、韓国併合に関する条約によって日本は朝鮮を領土化しました。
正当とはいえない植民地化ですが、日本が朝鮮を領土化することを当時の日本の同盟国は認めたのです。
そのため、そこから朝鮮は日本の植民地として扱われることになっていきました。
大正時代、日本が植民地として朝鮮を統治するため、当時の首都である京城(現在のソウル)に朝鮮総督府をおきました。
そして朝鮮社会に対して大きな変化を起こしていきます。
中でも、朝鮮の人々を日本に同化させようとして行われた政策は皇民化政策といわれ、よく知られています。
朝鮮の人々に日本語を使わせたり、名前を日本式にするなどの政策のことです。
また、日本はそれまで進んでいなかった半島の開発、そして近代教育制度を整えるなど、朝鮮を日本式に染めようとしていたのです。
独立運動の起こり
大正時代、日本の同盟国に日本が朝鮮を支配下に置くことを認められたとはいえ、朝鮮の人々にとっては正当なことではなく、受け入れられずにいました。
そのため、日本から独立しようという運動が起こっていきます。
そんな情勢の中、1919年に朝鮮独立運動の三・一運動がおこります。
この運動のきっかけは朝鮮の人々が独立宣言を読み上げ万歳三唱したことです。
そこから次第に朝鮮半島全体にこの運動が広がっていきました。
こうして広がった独立運動は集会や独立万歳を叫びながら行うデモなどが中心であり、比較的穏やかな運動でしたが、朝鮮総督府は厳しく弾圧するという行動をとりました。
当時は陸軍の憲兵が一般の警察を兼ねる憲兵警察制度がありましたが、この制度の力を借り、運動の弾圧を行い、約七五〇〇名とも言われる死者を出したのです。
朝鮮のジャンヌ・ダルク
大正時代の日本が朝鮮を植民地にし、そのことに関して朝鮮で独立運動が起こっていたなか、一人の朝鮮の女性が有名になります。
それが柳寛順といい、朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになった女性です。
当時一五歳の学生であった柳寛順は独立運動の先頭に立っていました。
しかし、逮捕され、拷問で併発した病気のため、獄死してしまうのです。
大正時代、大正ロマンなどという言葉が生まれたように日本は海外の文化を取り込み、様々な文化が花開いた時代でしたが、その一方で、日本の植民地にされた朝鮮の人々は独立しようと必死に声を上げ、行動を起こしていたのです。