現在の日本では、海外がより身近なものになるとともに、何かを学ぶための留学をする人も多くなってきました。
しかし、ほんの少し昔、例えば大正時代では、留学は現在のように身近なものではありませんでした。
大正時代の頃の認識では、留学する人=エリートといっても間違いではなかったのです。
より留学しやすくなった現代と大正時代では、一体どんな違いがあったのでしょうか。
留学するための2つの方法
大正時代、海外へ留学するには、2つの方法がありました。
それぞれ官選、私願といいます。
官選では試験で選ばれた人に往復の旅費とある程度のお金が渡され、留学出来ます。
しかし、その代わり、帰国すれば官に奉職することが求められました。
もしそれを拒否するならば、留学時に渡されたお金を返還しなくてはならなかったのです。
将来の国のために役立つ人材を育てるため、留学させ、外国を学ばせる。
それが大正時代の官選での留学でした。
官選で留学する人物は国が将来を見込んだエリートだったのです。
一方、私願で留学するには、官選のような厳しい制限はありませんでしたが、自分のお金で海外へ行き、学んで帰ってこれるだけのお金があることが必要とされました。
官選とは違い、自腹での留学だったのです。
また、当時の留学先、特に官選の留学生が選ぶ留学先は明治、大正時代を通してドイツが主流でした。
大正時代の留学経験者
大正時代、留学する方法の一つ、官選で選ばれるということはエリートとして認められることにつながっていました。
そんな大正時代や明治時代には、現代を生きる私達でも知っているほどの有名人が留学を経験しています。
例えば、有名な人物の中に新渡戸稲造がいます。
新渡戸稲造は官費で留学していますが、それだけでは終わらず、私費でも留学している人物なのです。
さらに白州次郎にイサム・ノグチ、山本五十六など、それからの日本、そして現在の日本にまで影響を与え続けている人物のなかには明治、大正時代に留学を経験した人物が多く見られます。
当時、海外の優れた文化や思想を取り入れるため、多くの知識人、エリートが海を渡り、留学を経験しました。
そして帰国後、学んだことをしっかり生かして活躍していったのです。
留学はこんなことももたらした!
大正時代には、海外の文化などを学ぶため、留学しては優れた文化や思想をものにし、日本に持ち帰ってくる人物が多くいました。
海外への留学でもたらされたというものがあります。
その一つが野球のルールである「盗塁」です。
この「盗塁」というルールは実は大正時代に早稲田大学のアメリカへの留学によって持ち帰られ、取りいれられたルールだったのです。
当時日本ではあまり歓迎されなかったこのルール、慶応大学でもアメリカに留学を始めたことで少しずつ広まっていったという説があるのです。
大正時代に行われた留学では、普段私達が考えているよりもずっと多くのものや文化を取り入れていたのです。