大正時代の農村の生活

大正時代、海外からは多くの品物や文化が入ってきて、もともと日本にあった品物や日常生活に大きな変化をもたらしました。

その流れの中で都市部では外国の文化を取り入れ、大きな変化が進んでいましたが、一方でそれ以外の農村ではどんな生活をしていたのでしょうか。

大正時代は日本茶の輸出が増えていた時代のため、茶を作っていた農村の生活を一例として大正時代の農村の日常生活はどんなものだったのかを見てみましょう。

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住まいはどこもほぼ一緒?

大正時代、海外から入ってきた文化などにより大きく変化していく都市部に比べ、農村では都市部ほど大きな変化は見られませんでした。

例えば、住まいのこともそのひとつ。

大正時代の都市部では、文化住宅とよばれる住まいが注目され、広まっていましたが、農村では少し事情が違います。

お茶作り農家の住まいのつくりを見てみると、たいてい土間に板張り、そしてそこそこ大きな部屋という構造が一般的でした。

特に土間は農村に住む人々にとってはとても便利なもの。

野良仕事などをして帰ってきた時に、土足のまま作業ができるため、土間はとても便利で農村の住まいには欠かせないものだったのです。

そして、それはお茶作りをしていた農村だけに言えることではありません。

お茶作り農村だけではなく、大正時代の農村では、だいたいどこもこの構造の住まいが一般的だったのです。

ごはんは一日何食?

大正時代の農村では、労働時間がとても長いことが普通でした。

農村の家庭の生活を見てみると、食事の時間以外は労働時間と言えるほど働いていました。

労働時間とその他の時間をはっきり分けることはなかったのです。

一日の畑仕事などを終えても、夜なべすることもあり、すべてを終えて一日の嫁は最後に風呂に入り、眠ります。

その時刻はだいたい23時頃。

そして、農村の食事も少し変わっていました。

大正時代にお茶作りをしていた農村では、食事は「よじき」とよばれ、一日4回とることもありました。

大正時代の都市部では、洋食などが徐々に日本人に受け入れられていましたが、農村ではそうではありません。

米を食べるにしても、米だけではなく、雑穀、山菜、野草、海藻、乾燥させた大根やかぶなどをまぜ、量を増やしたものを食べていたという記録が残っています。

この農村の食生活も同じ大正時代の都市部とは違うところの一つです。

朝が早すぎる!

農村では、朝はやく活動し、仕事に行っていました。

一例としてあげている大正時代のお茶作りの農村では、普段は朝4時に起き、活動し始めますが、収穫期の4月下旬から8月になると、さらに早く起き、活動し始めていました。

その時刻、なんと朝3時前。

大正時代のお茶作りの農村の朝は早く、当時増え始めたサラリーマンの生活との違いを見ることができます。

大正時代、都市部では海外の影響を受け、人々の生活は大きく変化しました。

しかし、一例を挙げたように、当時の農村では住まいの構造、そして食べ物、生活など、都市部とは大きな違いを見て取ることができます。

大正時代の農村は明治時代とそれほど変わらない暮らしをしていたのです。

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