バナナといえば、安くて美味しいというのが代名詞のフルーツ。
日本ではどの季節であってもスーパーの店頭で見ることができるため、誰もが親しんでいるフルーツです。
ダイエットにまたは気軽な栄養補給に利用される栄養価の高いバナナですが、大正時代のころでは今と違って高級フルーツの一つだったことはご存知でしょうか。
バナナが高級フルーツだというとピンと来ない方もいると思いますが、大正時代のバナナを取り巻く状況がどんなものだったのか、そしてそこから少しバナナが普及するまでを見ていきましょう。
バナナといえば台湾産?
誰もが知っているとおり、本来バナナは日本よりももっと暖かい環境の国で育ちます。
日本では限られた地域で、しかも少しだけしか栽培できないのです。
そのため、バナナは昔から海外の輸入に頼っていました。
明治時代に初めて日本に輸入されたバナナは、ほぼ台湾産でした。
それはバナナの消費が一気に増えた大正時代であっても同じです。
大正時代に消費量が増えてきたバナナは、一つに37kg~41kgほど入るカゴに詰めて日本に輸入されましたが、1915年には約25万カゴの輸入だったのにもかかわらず、1922年にはなんと約130万カゴの量にまで跳ね上がったのです。
大正時代の高級フルーツ?
大正時代にはバナナは大半が台湾からの輸入でしたが、その輸入の仕方にも変化が起きました。
大正時代、バナナなどを扱う台湾青果株式会社が誕生し、台湾から日本へと輸入されるバナナはすべてそこを通して輸入されるようになったのです。
そして、それらはすべてせりで販売されるようになりました。
一方、日本で消費量が増えたバナナですが、現在のように一般の人々が気軽に日常生活で食べるために買うことはまだありませんでした。
現在とは違い、バナナは値段の高い高級フルーツだったのです。
そのため、当時バナナは誰かへ渡す贈り物として、または病気の時に食べる特別なフルーツとして扱われていました。
現在では、誰かに送ったりする高級フルーツといえばメロンや、マンゴーなどがありますが、大正時代にはバナナがそんな高級フルーツの一つとして扱われていたのです。
叩き売りの始まり
バナナといえば、叩き売りが古くからの売り方として有名です。
露天商が口上を述べながら売る叩き売りという売り方のスタイルは大正時代後期から九州の問戸で始まりました。
そこにある問戸港では輸送の中継地点として多くのバナナが荷揚げされるようになったのですが、当時バナナの輸送は難しく、どうしても傷んでしまったりするバナナが出てしまいます。
実はこれこそがバナナの叩き売りが誕生したきっかけです。
悪くなったバナナはなるべく早く売らなければなりません。
バナナの叩き売りというのはそのために誕生、発展した売り方のスタイルなのです。
現在では安くて誰もが気軽に味わえるバナナ。
しかし最初からそうだったわけではありませんでした。
現在のように気軽なフルーツになるまでにはそんな長い時間が必要だったのです。