大正時代の発展していく飛行機

海外の国々に比べて遅れをとっていた日本の飛行機づくりですが、大正時代になると軍の後押しもあり、徐々に飛行機を作る環境が整っていきました。

日本の飛行機づくりの基礎は大正時代から徐々に整っていったのです。

日本の飛行機づくりの世界では、そんな大正時代にどんな動きがあったのでしょうか。

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飛行機開発は軍とともに?

大正時代、欧米に遅れをとっていた日本の飛行機ですが、とあるきっかけで航空機の重要性が見直されることとなります。

大正時代の飛行機づくりの環境を整え、飛行機をつくる基礎を築くこととなったそのきっかけとは、第一次世界大戦でした。

第一次世界大戦という、思いもかけないきっかけでその有用性が再確認されることとなった飛行機ですが、きっかけがきっかけのため、軍から依頼を受け、航空機の開発が進むこととなりました。

しかし、一方で、軍と飛行機との関わりが密になりすぎたため、民間機の分野での飛行機の発展は鈍いものとなったのです。

会社で取り組む飛行機づくり

明治時代から大正時代の日本では、まだ飛行機づくりの技術が発展していなかったために海外から飛行機の設計者、それに技師などを招いて飛行機の製作に取り組んでいました。

そして徐々に技術をものにし、大正時代の飛行機づくりが進んでいったのです。

例えば1918年に飛行機科を設置、航空機の製造をはじめる会社が現れるなど、日本の飛行機づくりは徐々に勢いを増していきました。

戦争用に作られる軍用機で一番古い歴史をもつ偵察機も作り出され、それをはじめとして徐々に様々なタイプの飛行機が作り出されていきました。

例えば、戦闘機では三菱重工株式会社が作った一〇式艦上戦闘機が大正10年に初めて飛行しましたが、これは海軍で初めての国産制式戦闘機でした。

明治時代から大正時代にかけて、軍と密に関わり、飛行機作りが進められていきましたが、戦闘機などの飛行機を作る環境を整える会社も現れ、なお一層日本の飛行機づくりの技術は進んでいくのです。

飛行機と関わりの深い日本人

日本人で飛行機と関わりが深く、日本航空の父とまで呼ばれるようになった人物がいます。

それが二宮忠八という人物。

この二宮忠八は人が乗る飛行機こそ飛ばすことはありませんでしたが、飛行機の歴史で外すことのできないあのライト兄弟よりも先に飛行原理に着想した人物でした。

また、この二宮忠八という人物は飛行神社という神社も建てています。

この飛行神社とは、航空事故の犠牲者などを祀る神社です。

現在のように飛行機が一般的ではなかった大正時代。

そんな大正時代には、思わぬきっかけで進化していった飛行機があったり、飛行機作りにその人生をかけ、現代まで語り継がれる人物もいたのです。

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