現代では医療の進歩が進み、すぐに適切な治療が受けられる時代となりました。
しかし、少し前まではそうではありません。
大正時代には、ある病気になったとしても、その病気になった原因などがわからず、なかなか適切な治療を受けられなかったことも多かった時代でした。
それでも、少しずつ病気となった原因が解明されていき、確実に医療が進歩していったのが大正時代という時代だったのです。
ビタミンと病気の関係
現在では、何か栄養素が足りないと特定の病気にかかりやすくなってしまうことはよく知られています。
しかし、少し前まではそれらの栄養素、ビタミンと病気の関わりについては解明されていませんでした。
ビタミンと病気との関わりが解明され始めたのは大正時代のこと。
ビタミンという存在がそのころ次々と発見され始め、ビタミンという名、そして栄養という言葉も広まっていったのです。
ビタミン、そして栄養素という言葉を広めたのは大正時代で一般的な病気だった脚気と壊血病という病気でした。
特定のビタミンが足りずに起こる脚気と壊血病。
例えば壊血病はビタミンCが不足することでかかることが判明するなど、ビタミンと病気との関わりが次々と明るみになっていくのです。
二大国民病とは
大正時代には、二大国民病と呼ばれた病気がありました。
それが脚気と結核です。
現在ではめったに聞かなくなった脚気という病気は大正時代に栄養と食品との関係が知られるようになり、徐々にその病気にかかる人を減らしていったのです。
一方、結核は大正時代には治療法がなく、空気、安静、栄養の3つが病気を治すためには一番重要なものだとされていました。
大正時代の二大国民病に深い関係がある栄養というキーワードは一気に世の中に浸透し、関心を集めていきました。
結核の広まりには理由があった?
大正時代に流行していた結核。
その結核が大正時代に広まった時に、特に多く見ることができた感染ルートがあります。
まず多かったのが、寄宿舎住まいの女工や兵役軍人が集団生活で感染するケース。
感染した人物が退役して村に帰ったりすることで日本中に広まったのです。
それから学校教員の間で広まり始め、大正時代の初め頃の教員の死亡総数の3分の1が結核が原因でした。
そしてそのことが大正時代の社会問題にまで発展するのです。
教員が結核にかかることが多かったのは、その低収入による栄養不良が原因であったと言われています。
大正時代では現在ほど医療が発達していなかったこともあり、現在では治る病気に長く苦しむ方も多くいました。
その中には壊血病のように、ビタミン不足などで起こる病気にかかる人も多かったのです。
しかし、一方で徐々にビタミンや病気との関係が明らかになり、一般の人々の中にも知識が広まっていくのも大正時代の特徴なのです。