大正時代は、日常着としての服が和服から洋服へ変わっていった時代でした。
男性は一足早く、そして女性は男性よりも遅く、和服から洋服へと変わっていきましたが、服装の歴史を見ると洋服へ変わっていったきっかけがいくつか大正時代にありました。
それは一体どんなものだったのでしょうか。
和服か、洋服か。
大正14年、今和次郎が中心となって東京銀座街風俗調査が行われました。
その結果、道行く庶民は男性では67%が洋服を着ているのに比べ、女性が洋服を着ていたのはたった1%という結果でした。
しかし、短い大正時代の中で男性も女性も徐々に和服から洋服へと変わっていきました。
当時女性にとって着物は財産であり、縫い直して長く使える経済的なものでしたが、大正時代の末期には紺のセーラー服が女学生の制服になったことに加え、働く女性でバスの車掌や看護婦などに制服が出来たため、洋服は少しずつ庶民の日常へと溶け込んでいったのです。
また、大正12年に起きた関東大震災では、着物に火がついてもすぐに脱ぎ棄てることが出来なかったことも庶民の間に洋服を広めるきっかけとなりました。
更に洋服屋から発売された庶民的な簡単服、「アッパッパ」も庶民にとって洋服がより身近になったきっかけの一つでした。
子供服も洋服へ
大正時代には男性や女性だけでなく、子供服にも洋服化の波がやってきました。
初めは文化人だったり、裕福な家で着られていた洋服ですが、大正10年ごろには洋服屋が販売する既製の男女通学服など、需要が多くなってきました。
その流れが大きくなり、やがて銀座に子供服専門の洋服屋が開業します。
更に百貨店では子供服の展示販売が行われるなど、徐々に子供の洋服も実用化されていくのです。
また、大正時代には洋服屋で服を買うだけではありませんでした。
実は、雑誌で洋服の作り方が紹介されるなど、家庭洋裁ブームがやってきたため、洋服を洋服屋で買うだけではなく、自分たちで作ることも多くなっていったのです。
女性を洋服業界へ!
男性に比べて、和服から洋服への動きが遅かった女性ですが、流れに乗ってしまえばその早さは男性の比ではありませんでした。
大正時代に起こった家庭洋裁ブームにのって、あらゆるところに洋裁を教える場所が出来ました。
例えば大正10年には、有名な洋服屋の二代目である飯島栄次郎は東京神田に飯島洋裁所を開きます。
その裏には、男性である飯島の大きな思惑が隠されていました。
実は、飯島栄次郎はそれまで男性が独占していた洋裁業を女性のものにしようとしていたのです。
現代では洋服といえば男性よりも女性のほうがより詳しく、流行を追いかけるイメージが一般的。
しかし、大正時代以前では男性よりも女性の方が洋服になることが遅かったり、男性が洋裁業を独占していたりと、服関連の物事にはあまり女性は関わってはいませんでした。
現代のように、女性が洋服屋で働いたりすることが一般的になったのは、大正時代に様々なきっかけがあったり、意識的にそうしたきっかけが作られた結果なのです。